LOGIN三話四節 雨を待つもの からり。 木戸は、店に入ったときと同じ、聞き慣れた乾いた音を立てた。 それだけのことなのに、扉の向こうにあった町のざわめきが、待っていたかのように再び夜の中から流れ込んでくる。 老女は戸口までついてくると、そのまま店じまいとでもいうように暖簾を下げた。 歩幅を少し広げ、その場を離れるように石畳を進んでいく。 ほどなくして頭上には、幾重にも吊るされた提灯の明かりが戻ってきた。 赤、橙、青、淡い緑。 濡れた石畳へやわらかな色を落としながら揺れるその数は、店へ入る前よりも明らかに減っていた。 料理屋から漂う炭火と魚の脂の匂いも、片付けを始めた商人たちの気配も、少しずつ夜の奥へ引いており、あれほど賑わっていた通り全体が、ゆっくりと一日の終わりへ沈んでいくようだった。 来るときに見かけた、あの小さな鬼の子供の姿が目に入る。 さっきまで串菓子を両手に抱えていたその子は、もう歩き疲れてしまったのだろう。 母親の背中へ負ぶわれたまま眠っており、片手には食べかけの菓子をまだ大事そうに握っていた。 母親は子供を起こさないよう、ときおり背中を小さく揺すりながら人混みの中を進み、頭上の提灯が風に揺れるたび、その後ろ姿を赤や橙の光が交互に照らしていく。 やがて二人の姿は、店じまいを急ぐ商人や家路へ向かう者たちの間へ紛れ、そのまま夜の帳の向こうへ消えていった。 その後ろ姿をほんの少しだけ目で追いながらも、足は止めず、そのまま大通りの奥へと歩いていく。 華やかな料理屋や甘味処の並ぶ一角を抜けるにつれて、頭上を埋めていた提灯の数はさらに少なくなり、代わるように青白い鬼火が、ぽつり、ぽつりと道の端へ浮かび始めた。 人の声も少なくなる。 遠くで暖簾を外す音や、木箱を重ねる音がときおり響いてくるものの、それらも歩みを進めるたびに背後へ遠ざかり、やがて聞こえるものは、石畳を踏む足音と、どこか低い場所から流れてくる水の音だけになっていった。 その先には、建物のあいだを縫うように細い水路が流れている。 普段なら人の行き来もあるのだろうが、この時間になると、その上に架かる小さな朱塗りの橋には誰の姿もなかった。欄干のところどころでは古い塗料が剥がれ、そこから覗く黒ずんだ木肌が夜露に濡れ、水面へ落ちた鬼火の
三話三節 結晶の店 その名を呼ばれても、女は驚かなかった。 ほんの少しだけ目元を緩めると、肩に掛けていた小さな鞄を外し、慣れた様子で帳場の前まで歩いていく。 「……少し、時間が掛かりました。」 彼女がそう答えても、老女は深く事情を尋ねようとはしなかった。 長い付き合いの中では、それだけで十分なのだろう。 帳場の下へ手を伸ばした老女は、何の飾りもない白い陶器の皿を一枚取り出すと、二人の間へ置いた。 縁の一部には小さな欠けがあり、長いあいだ繰り返し使われてきたことが窺えるものの、それ以外には模様も文字もない。異様な品々に囲まれたこの店の中では、かえって場違いなほど素朴な皿だった。 「いつものを。」 老女が皿の縁へ指を添えると、零と呼ばれた女性は静かに頷いた。 彼女は鞄を足元へ置き、右の掌を自分の腹部へ重ねると、そのままゆっくりと目を閉じる。 しばらくすると、掌の隙間から淡い白色の光が滲み始めた。 最初は輪郭さえ持たない霧のようだった光が、呼吸に合わせて少しずつ指先へ集まり、その中へ透明な粒が一つ、また一つと生まれていく。小さな粒の表面へさらに小さな粒が重なり、互いへ吸い寄せられるように数を増やしながら、雪の結晶が枝を伸ばすように一つの形を作り始めた。 塩を溶かした水を静かに煮詰めていけば、いつの間にか器の縁へ白い結晶が育ってゆく。 それとよく似ていた。 ただし零の掌で育つものは岩塩よりも遥かに繊細で、薄い硝子を幾重にも重ねたような透明感を持ち、その奥では幾つもの淡い色が、完全には混ざり合わないまま静かに揺らめいている。 やがて零が目を開いた。 掌の中央には、指先ほどの小さな結晶が残されていた。 完全な透明ではない。 奥には柔らかな琥珀色が灯り、その周囲を乳白色やわずかな青、淡い金色が幾重にも包み込んでいる。見る角度によって色の位置が変わり、内部へ閉じ込められた小さな光が、遠い場所にある灯火のようにゆっくりと揺れていた。 零はそれを壊さないよう指先で摘まみ、白い皿の中央へそっと置く。 こつん、と。 硬いもの同士が触れたはずなのに、その音は不思議なほど澄んでおり、小さな鈴を遠くで鳴らしたような余韻だけが店内へ残った。 老女は壁際に置いてあった眼鏡を取り、鼻の上へ掛ける。 先
三話二節 灯の町 赤、橙、青、淡い緑。 幾重にも張り巡らされた綱から提灯や灯籠が吊るされ、その光が雨を残した石畳の上へと長く映り込んでくる。 その光景はあまりにも鮮やかで、夜の闇さえこの町を飾るためにあるように思えた。 数えきれないほどの灯り。 女が寂れた神社の鳥居に触れてから数呼吸も経たないうちに、その景色は、それまで彼女の目に映っていた東京とは明らかに違うものへと変わっていた。 狭い神社の先に続いていたはずの古びた路地は、今やそこから緩やかな坂道が伸び、左右には木造の商家が隙間なく軒を連ねている。 白み始めていた先ほどまでの空とは違い、頭上には満天の星空が広がっていた。 女はそれを不思議がる様子もなく、まるで当たり前のように鳥居の下をくぐる。 濡れた石畳へと踏み出したその足取りは明らかに鳥居に触れる前よりも軽快で、目に映る木々の緑も、夜空の黒も、それまでより鮮やかだった。 どこからともなく漂ってくる嗅ぎ慣れた懐かしい香りが肺を満たしてゆくにつれ、ぼやけていた世界の輪郭まで、少しずつ描き直されてゆく。 通りを行き交う者たちの姿は、先刻まで歩いていた東京の人々とは明らかに違っていた。 前掛け姿の大きな狸が店先へ桶を並べ、その向こうでは頭に小さな角を生やした母親らしい女が、両手に串菓子を抱えた子供の手を引いて歩いている。 少し先の店では狐や天狗、鬼を象った面が軒いっぱいに吊るされ、そのうちの一つが客の背中を追うように、ぱちりと片目だけを瞬かせた。 明らかにおかしな光景。 なのに、それを見た女の表情には、微塵も怯えの色がなかった。 炭へ落ちた魚の脂が香ばしい煙を上げ、湯気の立つ鍋を囲んだ客たちは肩を寄せ合っている。 店じまいを始めた商人が品物を奥へ運び、仕事帰りらしい者が暖簾をくぐり、腹を空かせた子供が菓子の包みを抱えて家路を急いでいた。 姿こそ人間とは違っていても、そこに満ちているものは、どこにでもある一日の終わりだった。 女は通りの奥へ向かって歩いていく。 途中、古びた唐傘が二本の細い脚で石畳を跳ねながら近づいてくると、女は歩調をほんの少し緩め、先を譲った。 唐傘は水溜まりを大きく避けながら通り過ぎ、そのまま人混みの向こうへ紛れていったが、女は振り返ることもなく、何事もなかったように
三話一節 雨の向こう側 雨上がりの湿気を含んだ東京の匂いを、女はどうしても好きになれなかった。 濡れたアスファルトと古い建物の壁、排気ガス、それに閉店間際の飲み屋から漂う油や香辛料までが、湿った夜の空気の中でぐちゃぐちゃに入り混じり、鼻の奥へまとわりついてくる。 白み始めた空のもと、彼女は一人、閉じた傘を片手に中華街の路地裏へと足を向けていた。 軒先から吊るされた提灯の明かりが、雨に濡れた路面へ長く引き延ばされている。その通りを彩るのは、ネオンサインに縁取られた金と紅の看板達。 そこにはもう、数時間前ほどの人通りはなかったものの、遅くまで営業している料理屋などからはいまだ食器を重ねる音が聞こえ、半分ほど下ろされたシャッターの向こうでは、今日最後の片付けをする従業員達の気配が漂っていた。 角をひとつ、またひとつと曲がるたび、中華街の華やかさが少しずつ遠ざかってゆく。 頭上を埋めていた灯りの数が減り、漂ってくる油や香辛料の匂いも次第に薄くなってゆく一方で、遠くを走る車の音や、古い雑居ビルの室外機が低く唸る音だけは、眠りきれない東京の気配として夜の底へ残り続けていた。 突然、女の足がピタリと止まる。 その視線の先には、古びた小さな神社があった。 周囲を建物に囲まれた境内は、中華街のすぐ近くにあるとは思えないほど狭く、そこだけ街から取り残されたようにひっそりと沈んでいる。 朱塗りだったはずの鳥居は長い年月のうちに色褪せ、雨に濡れた柱のところどころから古い木肌が覗き、石段の端には水を含んだ苔が黒々と張りついていた。 女は石段の手前まで足を運んだものの、すぐに境内へ入ろうとはしなかった。 まずは来た道。 次いで左右の路地、そして最後に、その上に並ぶ建物の窓へと静かに視線を滑らせてゆく。 急いでいる様子も、いや、何かに怯えている様子すらもなく、ただ必要なことを確認しているだけらしいその仕草には、何度も同じ手順を繰り返してきた者だけが持つ慣れがあった。 ふと、神社の前を通りすぎる自転車が一台。 濡れた道路をタイヤが擦る音が完全に聞こえなくなるまで、彼女は時計を見ることもなく、ただずっと待っていた。 そんな風にして、ただ静かに周囲から人の気配が消えていくのを待ち続ける。 そのあとにも酔っぱらいが一人、さらに二
六節 雨のあと ……ぽつり、ぽつりと。 窓を打つ雨粒の音なのか、それとも頬を伝った雫が窓辺へ落ちる音なのか、澪にはもう分からなかった。 目を閉じれば、浮かんでくるのは少し照れたように笑う悠の顔だった。 つい先ほどまで、彼はそこにいた。 長い夜が終わり、悠は名残惜しそうに何度か澪を見ながら服を整え、まだ湿ったままのコートへ袖を通していた。 一ヶ月前の夜なら、扉の前で立ち止まり、「また来てもいいですか?」と尋ねていた。 けれど今夜の悠は、少しだけ照れたように笑ったあと、まるで次があることを疑っていないような自然さで口を開いた。 「また来ます。」 その一言に、澪は答えられなかった。 いつもなら簡単だった。 また、雨の夜に。 ただそう言って微笑めば、それでよかった。 けれど今夜は、その言葉が喉まで上がってきたところで止まった。 次の雨。 次の夜。 もう一度、悠がこの扉を開ける。 その光景を想像しただけで、胸の奥が嬉しさに揺れてしまったからだ。 「……はい。お待ちしています。」 考えるより先に、言葉が零れた。 悠は一瞬目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。 その笑顔を見た瞬間、澪もまた笑ってしまう。 もう取り消せなかった。 悠は小さく手を上げ、それから扉へ手を掛ける。 「じゃあ、また。」 澪はその背中を見つめたまま、小さく頷いた。 ……チリン。 冷たい雨の匂いが一瞬だけ店の中へ入り込み、やがて扉が閉じると、その音も悠の姿も向こう側へ消えた。 澪の笑顔も、そこで消えた。 一ヶ月前の悠には、まだ過去へ向けられた強い想いが残っていた。 妻だった人へ。 家族だったあの子へ。 それは彼を苦しめていたけれど、同時に、心のすべてが澪一人へ向かうことを防いでもいた。 今夜は違った。 過去を忘れたわけではない。 けれど悠は、それを過去として抱えたまま、少しずつ前へ歩き始めている。 そしてその傍らに、新しい何かが育ち始めていた。 その向かう先を、澪は知っている。 自分だった。 もし、もう一度会えば。 また話を聞きたいと思うだろう。 笑ってほしいと思うだろう。 夜が深くなれば、きっとまた手を伸ばしてしまう。 「……触れても、いいですか?
五節半 澪 やがて澪が立ち上がる。 悠も続いて立ち、すぐ目の前にいる彼女の腰へ腕を回した。 一瞬だけ、澪の身体が強張った。 けれどすぐに力が抜け、その代わりに細い腕が悠の背へ回される。 二人の距離は、もうほとんど残っていなかった。「触れても……いいですか?」 今夜も、そして一ヶ月前の夜にも、澪から与えられた問いだった。 今度は悠の口からその言葉を聞かされ、澪は少しだけ目を見開いた。 それでも、悠が答えを待っているのだと分かると、その表情はゆっくりと柔らかくなっていく。「……はい。」 小さな返事だった。 けれど、迷いはなかった。 悠は澪を見つめながら、彼女の身につけているものへ手を掛けた。 一つずつ。 急がないように。 けれど今度は、澪にすべてを任せるのではなく、自分の手で。 エプロンの紐を解く動作ひとつにも妙に手間取り、途中で何度か指が止まった。澪は手伝おうとしたらしい。けれど悠が真剣な顔をしているのを見て、伸ばしかけた手を引っ込める。 その代わり、少しだけ可笑しそうに目元を緩めた。「……笑いました?」 悠が手を止めると、澪は慌てたように首を横へ振った。 それでも口元には、小さな笑みが残っている。「笑ってませんよ。……少しだけ、可愛いなと思っただけです。」 そんなことを言われるとは思わず、悠は困ったように息を吐いた。 けれど、そのやり取りのおかげで少しだけ緊張が解けた。 やがて、二人を隔てていたものが少しずつ減っていく。 悠はそのたび、澪の表情を確かめた。 澪もまた、最初はいつものように微笑んでいた。 大丈夫だと伝えるように。 安心させるように。 けれど、悠の手が肩へ触れ、頬を撫で、近づいた唇が肌へ静かに触れていくにつれて、その笑顔は少しずつ形を保てなくなっていった。「……んっ。」 小さな声が漏れた。 澪は自分でも驚いたように口元へ力を入れた。 けれど悠が顔を上げると、何事もなかったように笑おうとして、また失敗する。「澪?」 呼ばれた彼女は、一度だけ視線を逸らしてから、小さく首を横へ振った。「大丈夫です。……続けてください。」 声が少しだけ揺れていた。 一ヶ月前の夜、悠の記憶に残っている澪は、もっと余裕があった。 触れるときも、抱き寄せるときも、いつも彼の様子を確かめ、戸惑えば待ち、緊







